2010年2月25日木曜日

韓国による于山島史料の作為抽出と記録の遡及 opp7

  韓国による于山島史料の作為抽出と記録の遡及 | 伝統

  No.54063 投稿者: oppekepe7 作成日:2006-07-03 22:30:10 閲覧数:737



  いつ完成するかわからないHP用に作成中。韓国語版は機械翻訳のため精度は保障しない。
  問題点及び課題があればご指摘下さい。

    oppekepe7 07-03 22:02
   ん。早速太宗実録の編纂年が間違ってた。

   oppekepe7 07-03 23:06
   世宗実録地理誌から三国史記は300年遡及だったな。



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地誌提要に見る明治初期の大分県

http://www.pref.oita.jp/11103/tayori/01-2.htm

http://www.pref.oita.jp/11103/tayori/02-3.htm


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なぜ外一島の明瞭化が必要なのか  take_8591

re6a)なぜ外一島の明瞭化が必要なのか 2008/ 4/25 8:49 [ No.16498 / 16501 ]

投稿者 : take_8591



  http://www.enjyuku.com/d2/i_006.html
  に、意思表示は、次のように説明されています。
  ------------------------
  一定の法律効果を欲するという意思を外部に表示することである。意思表示は次の3つの部分から構成される。
   1:内心的効果意思=具体的にある法律効果を意欲する意思のこと。例えば店頭で品物を買おうと意欲する意思が内心的効果意思である。
   2:表示意思=内心的効果意思にもとづいて、その意思を表示しようとする意思のこと。例えば、店頭で品物を買うために、店員にその旨を伝えようとする意思である。(なお表示意思を内心的効果意思に含める考え方もある)
   3:表示行為=内心的効果意思を外部に表示する行為のこと。例えば、店頭で品物を買うために、店員にその旨を告げることである。
  ------------------------

  日本の民法では、内心的効果意思は法律効果を生じないとされています。国際法も同様で、領有権を確立させるには、公告とか実効支配等の「外に現れた意思」が必要とされています。
  1877年に太政官が「竹島外一島を版図外とする」旨の決定は、それだけで「領有権の放棄」にはなりません。天城の調査を経た後の1883年の「鬱陵島渡海禁止令」によって始めて鬱陵島の「領有権が放棄」されることになります。
  そもそも、1905年の竹島編入の閣議決定に効果を認めず、韓国への告知が無かったと主張している方が、同時に「外一島とはどこか」を論じているのは矛盾します。

  又、「外一島」とは何なのでしょうか。外一島が松島であるとの「内心的効果意思」を持っているなら、松島と明記する筈です。それを「外一島」とするのは、未だ特定していないからであり、その特定を指令の具体化に伴う官僚の判断に任せるという意味を持っています。そして、1883年に「外一島」はアルゴノート島又はチェクトとして具体化されたのかもしれません。


  さて、外務省は韓国の通信社から「外一島はどこか」旨の質問を受けました。係争国の通信社が、過去の「内心的効果意思」の明瞭化を求めるというのは無理な話です。又、この明瞭化は何の法律効果も生みません。具体的な「表示行為」を示してから質問するべきです。そして、具体的な「表示行為」を示めせないと推定でき、質問の趣旨が理解できないので、「まだ調査中」との回答しかできなくて当然です。



re6a)外務省の主張がお分かりでない 2008/ 5/ 1 7:20 [ No.16519 / 16520 ]

投稿者 : take_8591


 Q 次の文章の最後に「竹島を領有する意思を再確認しました」とありますが、最初に「竹島を領有する意思を確認した」のは何時でしょうか ?

  日本は古くから竹島の存在を認識していました。
  日本は、鬱陵島に渡る船がかり及び漁採地として竹島を利用し、遅くとも17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました。
  日本は、17世紀末、鬱陵島への渡航を禁止しましたが、竹島への渡航は禁止しませんでした。
  日本政府は、1905年、竹島を島根県に編入して、竹島を領有する意思を再確認しました。

 A 「遅くとも17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました。」とありますから、最初に竹島を領有する意思を確認したのは「17世紀半ば」です。
  --------------------------------------

  上の質問は、私立中学入試には出題されない程にレベルの低い問題とと思います。
  しかし、世界には多くの人がいますから「それは一体いつなのか首をひねりたくなります(No.16502)」と捉える人がいても不思議ではありません。そして、この方に対して「日本語がお分かりにならない ?」と評価するでしょう。尚、「明治時代に確認を求めているのでしょうか(No.16502)」との疑問が生ずる文章ではありません。明治初期に関しては全く触れていないからです。


  半月城さんの日本語読解力を小学生レベルと仮定します。
  すると、納得できる面が多々あります。
  例えば半月城さんは[ No.16105 ]において、「日本地誌提要」及び「地学雑誌の田中阿歌麻呂の論文」を掲げて外務省を批判していました。そこで、私は[ No.16134 ]を投稿し、次の批判をしました。
  ① 『日本地誌提要』が日本の領土外と断定しているというが、竹島・松島は「本州の属島外」であるけれども、「本州の島嶼内」であると記されています。
  ② 『地学雑誌』200号に、「明治初年に到り、正院地誌課にてその島(竹島=独島)が本邦の領有を完全に非認した」と記されているので、明治政府が両島を日本の領土外と断定しているというが、田中阿歌麻呂は地学雑誌210号で、「本誌200号に掲げた記事は、全く竹島の記事に非ずして、鬱陵島の記事なるが如し。」と半月城さんが紹介した記事を訂正しています。
  この2点は誤読の生ずる余地の無いものですが、半月城さんは、[No.16503]で同じ主張を繰り返しています。この現象を、恣意的な誤読と評価する方もいますが、「日本語読解力を小学生レベル」としても納得できます。


  外務省の見解は、「開国以前の日本には国際法の適用はないので、当時にあっては、実際に日本の領土として取り扱い、他の国がそれを争わなければ、それで領有するには十分であったと認められる(No.16447)。」というものです。
  これを上記主張に当てはめると、17世紀半ばに確立した現竹島の領有権は、1696年に朝鮮は争わず、1882年にも朝鮮が争っていませんから、「他の国がそれを争わなければ、それで領有するには十分であったと認められる」のです。
  ただし、この領有権は「竹島を領有する意思を再確認」しなければならない程度に不確かなものでした。故に、1905年、竹島を島根県に編入して、竹島を領有する意思を再確認しました。


  ですから、半月城さんの次の見解は誤読です。
  --------[ No.16504 ]-----------------------
  閣議決定書・・・は竹島=独島を無主地と判定し、国際法上の先占理論にのって竹島=独島を日本領とする閣議決定したのでした。無主地という明治政府の判断は「固有領土」の主張に矛盾することは言うまでもありません。
  ------------------------------------------



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日露戦争と日韓議定書と竹島   take_8591 opp

re6a)日露戦争と現竹島 2008/ 4/21 21:14 [ No.16483 / 16494 ]

投稿者 : take_8591


  日露戦争(日本海海戦)は、「バルチック艦隊を全滅させなければ日本の負け」という史上稀な命題を負わされた戦争でした。この時、現竹島が果した(果すべき)役割は小さなものではありませんでした。それは次の頁等で報告されています。
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-territory-annexations.html
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-territory-annexations2.html
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-territory-annexations3.html
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-ulsan-tsushima.html
http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-ulsan-tsushima-2.html

  しかし、上のURLでも明らかなように、監視搭が建てられたのはリャンコ島だけではなく、鬱陵島にも建てられました。この鬱陵島の監視搭は日本軍が勝手に建てたものでした。仮にリャンコ島が朝鮮領であったとしても、軍事施設は日本軍が勝手に建てられるものでした。日露戦争の遂行の為にであればリャンコ島の編入は必要ありません、リャンコ島を「臨検収用」すればよいのです。もしかしたら、朝鮮に事後連絡が必要であったかもしれませんが、事後連絡等の必要性を説いたweb頁を未だ知りません。

  すると、「肝付はリヤンコ島が朝鮮領であることを知ったうえで、日露戦争を有利に遂行するため、竹島=独島に望楼を築いてロシア艦を監視するという軍事利用に協力すべく、同島の「領土編入」を後押しした人物でした。その目的のためにウソも方便でリヤンコ島を「無主地」と強弁したとみられます。[No.4629]」というような非常な覚悟をする必要は無いのです。
  しかも、肝付兼行・牧朴眞・山座円次郞という3人もの者が、自分の認識とは異なる「目的のためにウソも方便」をしたと言うのです。
  この中井氏の前に現れた3人の官僚が揃って気骨の無い官僚であったなら、日露戦争に勝利することは出来なかったと思います。



日韓議定書(明治37年2月23日)
 第四条 
  (一)第三国の侵害により、もしくは内乱の為、大韓帝国の皇室の安寧あるいは領土の保全に危険ある場合は、大日本帝国政府は、すみやかに臨機、必要の措置を取るべし。しかして大韓帝国政府は、右大日本帝国の行動を容易ならしむる為、十分便宜を与うる事。
  (二)大日本帝国政府は、前項の目的を達する為、軍略上、必要の地点を臨検収用することを得る事。



竹島の望楼は舞鶴鎮守府所管    2008/ 4/21 23:32 [ No.16486 / 16494 ]

投稿者 : henchin_pokoider01


鬱陵島も含めて韓国に建設された望楼は佐世保鎮守府所管
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/mosd-chiyoda496/16.jpg
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/mosd-chiyoda496/11x.jpg
所在の住所にも「韓國」が明記されている。

竹島の望楼は舞鶴鎮守府所管
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/mosd-chiyoda496/27.jpg
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/mosd-chiyoda496/14x.jpg

日本軍が竹島を韓国領と考えていたとは思えないな。



re6a)日韓議定書のリャンコ島 2008/ 4/23 8:47 [ No.16493 / 16494 ]

投稿者 : take_8591


  1614年に、日本と朝鮮は鬱陵島の領有を主張しあい、結論に至りませんでした。

  1667年に、日本(徳川幕府)は鬱陵島の領有を主張した後に、鬱陵島への渡海を禁止してこの事を朝鮮に連絡しました。
  http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/011.jpg
  http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/012.jpg

  1883年に、日本(明治政府)は鬱陵島への渡海を禁止して、この事を朝鮮に連絡しました。
  http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a11rui97/2.jpg
  http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a11rui97/3.jpg

  これら事実により、日本政府は、「鬱陵島に3度日本の侵略を受けたが何れも撃退した」という朝鮮政府の認識を知らなければなりません。
  しかし、リャンコ島は鬱陵島より日本側にありますから、朝鮮政府がリャンコ島の存在を知らなかった場合、日本がリャンコ島は日本領という認識を形成するのに問題はありません。又、朝鮮政府がリャンコ島を朝鮮領と考えていたとしても、その意思が明示的に表示されたことはありませんから、日本がリャンコ島は日本領という認識を形成するのに問題はありません。100kmも離れた島を鬱陵島の属島と認識しているかも知れないという注意義務が日本に無いからです。

  そして、1904年日韓議定書第3条に「大日本帝国政府は、大韓帝国の独立及び領土保全を確実に保証する事」とありますが、ここにリャンコ島が大韓帝国の領土であるという認識の存在を認められませんから、大日本帝国政府は第3国のリャンコ島侵略を日韓議定書に基づき撃退する義務はありません。
  すると、1905年のリャンコ島編入に際して、少なくとも韓国に対してだけは告知する義務が無かったといえます。

  更に、1906年島根県は、リャンコ島編入を朝鮮に連絡します。この時、大韓帝国は日本政府に抗議をしませんでした。仮に、日韓議定書のいう「大韓帝国の領土」にリャンコ島が含まれているとするならば、不可解な行動といわざるを得ません。この日韓議定書違反は、明らかに朝鮮侵略を意味しているからです。当時の大韓帝国に「他の事で忙しく、無人島の領有を争う暇が無かった」と言い訳できるほどに忙しかった他の事はありません。
  http://take8591.web.fc2.com/06web/9100etc/080417/820.htm
  http://take8591.web.fc2.com/06web/9100etc/080417/830.htm
  すると、日韓議定書のいう「大韓帝国の領土」にリャンコ島が含まれていなかったと確認できます。



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1905年の閣議決定   take_8591

re6a)1905年の閣議決定 2008/ 4/21 20:33 [ No.16481 / 16494 ]

投稿者 : take_8591



 http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a11rui981-1905/

  明治38年1月28日
  別紙内務大臣請議無人島所属に関する件を審査するに、
  右は北緯37度9分30秒東経131度55分、隠岐島を隔る西北85浬に在る無人島は、他国に於て之を占領したりと認むへき形跡なく、
  一昨36年、本邦人中井養三郎なる者に於て、漁舎を構へ人夫を移し猟具を備へて海驢猟に着手し、今回領 土編入並に貸下を請願せし所、
  此際所属及島名を確定するの必要あるを以て、該島を竹島と名付け、自今島根県所属隠岐島司の所管と為さんとすと謂ふに在り。
  依て審査するに、明治36年以来中井養三郎なる者が、該島に移住し漁業に従事せることは関係書類に依り明なる所なれば、国際法上占領の事実あるものと認め、之を本邦所属とし、島根県所属隠岐島司の所管と為し差支無之儀と思考す。
  依て請議の通り、閣議決定相成可然と認む。


  この閣議には、次の資料が付されていました。
  一、中井養三郎より請願書
  一、水路部長の回答
  一、外務、農商務、両次官、並びに島根県知事の回答

  この内、「中井養三郎より請願書」は、「リャンコ島領土編入並びに貸下願」として外務省のHPにありますが、他の2つの資料を私は探し出せません。



re6a)他国の占領が認められない 2008/ 4/21 20:53 [ No.16482 / 16494 ]

投稿者 :
take_8591



  中井氏の履歴書は、半月城通信に次のとおりです。
  http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html

 「本島の鬱陵島を付属して韓国の所領なりと思はるるを以て、将に統監府に就て為す所あらんとし上京して種々画策中、時の水産局長牧朴眞の注意に由りて必らずしも韓国領に属せざるの疑を生じ、其調査の為種々奔走の末、時の水路部長肝付将軍断定に頼りて本島の全く無所属なることを確かめたり。
 依て経営上必要なる理由を具陳して、本島を本邦領土に編入し且つ貸付せられんことを内務外務農商務の三大臣に願出て、願書を内務省に提出したるに、内務当局者は此時局に際し韓国領地の疑ある莫荒たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あることの疑を大ならしむるは、利益の 極めて小なるに反して事体決して容易ならずとて、如何に陳弁するも願出は将 に却下せられんとしたり。
 斯くて挫折すべきにあらざるを以て、直に外務省に走り、時の政務局長山座円二郎氏に就き大に論陳する所ありたり。氏は時局なればこそ其領土編入を急要とするなり、望楼を建築し無線若くは海底電信を設置せば敵艦監視上極めて 届竟ならずや、特に外交上内務の如き顧慮を要することなし、須らく速かに願書を本省に回附せしむべしと意気軒昂たり。此の如くにして、本島は竟に本邦領土に編入せられたり」
  -------------------------

  上記「時の水路部長肝付将軍断定に頼りて本島の全く無所属なることを確かめ」を受けて、半月城さんは[No.4629]で次のように述べます。
  軍人である肝付兼行水路部長はリヤンコ島(竹島=独島)を「無主地」のごとく中井に回答したようですが、実はこの人こそ同島を朝鮮所属と判断し、それを『日本水路誌』でなく『朝鮮水路誌』に入れて刊行した責任者でした。
  肝付はリヤンコ島が朝鮮領であることを知ったうえで、日露戦争を有利に遂行するため、竹島=独島に望楼を築いてロシア艦を監視するという軍事利用に協力すべく、同島の「領土編入」を後押しした人物でした。その目的のためにウソも方便でリヤンコ島を「無主地」と強弁したとみられます。
  -------------------------

  又、堀和生氏は、「1905年日本の竹島領土編入」において、「日本海軍の『朝鮮水路誌』1894年と99年版には、鬱陵島と並んでリアンコール列岩が載せられている。つまり、19世紀末に、日本海軍の水路部当局が竹島=独島を朝鮮領だと認識していたことは、疑いのないところである。(106頁)」と述べています。


  しかるに、「水路部長の回答」を1905年の閣議決定の資料にしたというのです。これは矛盾しているように見えます。
  そこで実際の朝鮮水路誌を見てみると、逆に、リャンコ島が朝鮮領でないことを明らかにしていたのです。ここに矛盾はありません。半月城さんと堀和生氏の指摘が間違っていたのです。
  http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/hydrograph1894/
  朝鮮国は亜細亜の東部にあり 其地勢たる狭長なる一大半島を成し 数多の島嶼 之を圍繞す 其位置は北緯33度15分より同42度25分 東経124度30分より同130度35分に至る・・・
  鬱陵島(一名松島)・・・而して其中心北緯30分東経130度53分に、・・・
  -------------------------
  朝鮮の東限は東経130度35分であり、鬱陵島が朝鮮の東限の東にあると記されています。これにより、「他国に於て之を占領したりと認むへき形跡なく」は、「水路部長の認識」が示されている「朝鮮水路誌」に明らかであると言えます。


  牧朴眞は、1903年の『韓海通漁指針』に発刊の辞を書いています。山座円次郞は、1904年の『最新韓国実業指針』に序文を書いています。(両著共に、リャンコ島を江原道の項で説明しています。)この様に朝鮮通のお二人ですから、その版図を熟知し、勅令41号も知っていたと思われます。それでも、リャンコ島編入を積極的に勧めたというのです。「他国に於て之を占領したりと認むへき形跡なく」は、朝鮮通のお二人がリャンコ島編入を積極的に勧めたことでより確かなものになります。


  すると、「外務、農商務、両次官、並びに島根県知事の回答」を捜査するまでも無く、「他国に於て之を占領したりと認むへき形跡なく」が明らかです。



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半月 1905年に領有する意思を再確認

外務省パンフレットへの批判6、(1) 2008/ 4/27 17:08 [ No.16502 / 16505 ]

投稿者 : ban_wol_seong


6.大韓帝国勅令と島根県告示

  外務省のパンフレット曰「6.日本政府は、1905年、竹島を島根県に編入して、竹島を領有する意思を再確認しました」

  外務省が「再確認」と強調するからには、以前にも「竹島を領有する意思」を確認したことがあるはずですが、それは一体いつなのか首をひねりたくなります。現在の外務省はいざ知らず、50余年前の外務省は幻の「松島(竹島=独島)渡海免許」を信じていたので、前回の確認とは数百年前の、幻の渡海免許を指すのでしょうか? それとも時代がくだって明治時代に確認を求めているのでしょうか?

  もし前者ならまったくお話になりません。川上健三がとなえた幻の松島渡海免許は、最近では塚本孝氏や池内敏氏などによりことごとく否定されました。つぎに、後者の可能性ですが、50余年前の外務省はこう主張しました。
       --------------------
  当時(明治時代)の外務省では、松島という島の開拓願いの提出に際し、この島がいかなる島を指すかを明らかにするため視察を行なう必要があるかどうかを検討していた。
 (途中省略)
  渡辺記録局長は、「このいわゆる松島なるもの、竹島(今の鬱陵島)なれば彼に属し、もし、竹島(今の鬱陵島)意外にある松島なれば われに属さざるをえざるも・・・その松島「デラセ」島なるものは本来、竹島すなわち鬱陵島にして、わが松島なるものは洋名「ホルネットロックス」なるがごとし、・・・このホルネットロックスのわが国に属するは各国の地図みな然り」、「旧幕府無事を好むより・・・竹島(今の鬱陵島)をもって・・・朝鮮に譲渡せりといえども 松島(今の竹島)は竹島(今の鬱陵島)よりわが近き方にあれば、日本に属し、朝鮮また異論ある能わず」と述べ、視察の結果、この松島が鬱陵島と別物ならば、因幡、隠岐、石見などに帰せざるを得ずという見解を示していた。

  明治13年9月、軍艦天城が赴いて実際にこの島を測量した結果、問題の松島は鬱陵島そのものであり、鬱陵島付属の島に竹嶼があることが明確にされた。
  松島開拓願いの審議に際して明らかなことは、明治初期においても日本国政府が竹島を日本固有の領土として認識し、その上に立って議論していたことである(注1)。
  (注1)塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両国政府の見解」『レファレンス』2002.6月号、P58
       --------------------

  50余年前の外務省は、明治政府も「竹島を日本固有の領土」と認識していたとする根拠を、単に外務省の一局長の見解においていたようです。ところが、その渡辺洪基局長の地図などに関する見解が噴飯ものであることはすでに書いたとおりです(注2)。
  (注2)半月城通信<外務省内の「竹島・松島」島名混乱と結論>

  そうした見解を主柱にして外務省は「固有領土」の証明をしたと考えているようですが、これは我田引水もはなはだしいようです。というのも、当時の決定的な資料については何も語らず、史料の恣意的な選択をおこなって「固有領土」の結論を出したからです。



外務省パンフレットへの批判6、(2) 2008/ 4/27 17:09 [ No.16503 / 16505 ]

投稿者 : ban_wol_seong



  そうした見解を主柱にして外務省は「固有領土」の証明をしたと考えているようですが、これは我田引水もはなはだしいようです。というのも、当時の決定的な資料については何も語らず、史料の恣意的な選択をおこなって「固有領土」の結論を出したからです。

  ちなみに、外務省が今でも語ろうとしない明治時代の重要史料は下記のとおりです。

(1)外務省報告書 朝鮮国 交際始末 内探書(注3)
 報告書中に「竹島松島 朝鮮附属に相成候始末」と題する一文があります。
  (注3)朝鮮国 交際始末 内探書

(2)太政官・正院地誌課『日本地誌提要』(注4)
 『日本地誌提要』は地理担当当局による官撰地誌なので、そこに竹島=独島がどう扱われたのかは非常に重要です。同書は、隠岐の小島179を「本州の属島」と記し、それ以外に竹島・松島があると記しました。この記事から明治時代の地理学者・田中阿歌麻呂などは竹島・松島が日本領でないと解釈しました。この官撰地誌でも竹島・松島が一対の扱いになっていることは重要です。
  (注4)『日本地誌提要』巻之五十、「隠岐」

(3)内務省地理局『磯竹島事略』、『礒竹島覚書』(注5)
 両書の記述はほとんど同じで、江戸時代の「竹島一件」の顛末を網羅しました。両書は内務省が竹島・松島を日本の版図外と判断した基礎資料として重要です。
 両書はもちろん鳥取藩の「竹嶋之書付」なども所載しました。この史料で竹島・松島が鳥取藩をはじめとしていずれの藩にも属さないことや、幕府が松島(竹島=独島)の存在を知らなかったことなどが明白です。
  (注5)磯竹島事略 乾 (PDF 524KB)  磯竹島事略 坤 (PDF 381KB)

(4)太政官「竹島外一島」版図外指令(注6)
 1877年、内務省は地籍編纂事業において問題になった竹島・松島は日本領でないと判断しましたが、版図の取捨は国家の重大事なので、念のために太政官の裁可を仰ぎました。その内務省の伺書中に「磯竹島略図」がありますが、同図からも松島は現在の竹島=独島であることが明瞭です。
 太政官は内務省の伺書どおり、竹島(欝陵島)および外一島である松島(竹島=独島)を版図外と決定する指令を2週間後に発令しました。
  (注6)太政官「竹島外一島」版図外指令


(5)内務省地理局の官撰地図(注7)
 国土や領土の担当機関である地理局が作成した官撰地図において、竹島・松島は一時期を除いて日本領として扱われませんでした。1905年以前における明治時代の官撰地図は下記のとおりです。
(A)1867年「官板 実測日本地図」、幕府出版(1870年に明治政府の開成学校から再版)
(B)1879年「大日本府県管轄図」、内務省地理局出版
(C)1880年「大日本国全図」、同上
(D)1881年『大日本府県分轄図』、同上(1883年に改訂版)
  (注7)半月城通信<証拠としての竹島=独島地図、舩杉氏への批判>

 これらの官撰地図で竹島=独島が含まれるのは、(D)『大日本府県分轄図』中の極東図である「大日本全国略図」のみです。ただし『大日本府県分轄図』中の島根県など各府県図に竹島=独島は描かれませんでした。これ以外の地図に竹島=独島はまったく描かれませんでした。
 なお「大日本全国略図」において、初版では竹島・松島は山陰道と同色に彩色されましたが、これは作成者の無知による誤りと思われ、改訂版では訂正され無彩色にされました。すなわち、この訂正は竹島=独島は日本領外としたことを意味します。


  上記のように、地理担当当局の官撰地図や官撰地誌、あるいは国家最高機関である太政官の指令などは、ことごとく竹島=独島を日本領でないとして扱いました。パンフレットは、このような明治時代の公的な史料に素知らぬふりをして、竹島=独島を日本の「固有領土」と強弁し続けているようです。
 「固有領土」の主張が無理であることは、今回パンフレットが写真で公開した閣議決定書からも明らかです。同書は竹島=独島を無主地と判定し、国際法上の先占理論にのって竹島=独島を日本領とする閣議決定したのでした。無主地という明治政府の判断は「固有領土」の主張に矛盾することは言うまでもありません。



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安龍福って何者?    take_8591

re5)安龍福って何者? 2008/ 4/23 8:53 [ No.16494 / 16494 ]

投稿者 : take_8591



 粛宗実録 1696-09-25
  欝陵子山島等、定以朝鮮地界、至有関白書契、而本国不有定式、今又侵犯我境、是何道理云、
  (安龍福は、隠岐島主と面談し)、「鬱陵島・于山島を以って朝鮮の地界と定めた関白の書契ある。日本では徹底していない。今また越境侵犯事件が起きた。これにどういう道理があるのか。(島根藩にこの道理を問うため来日した。」と答えた。)
  吾将上疏関白、歴陳罪状、島主許之、遂使李仁成、構疏呈納、
  (安龍福は、島根藩主と面談し)、「自分としては関白に上疏し、(対馬藩の)罪状を歴陳したい」と要求した。島根藩主が許したので、李仁成に上疏文を書かせた。

 粛宗実録 1697-02-14
  去秋貴國人有呈單事、 出於朝令耶?
  (対馬藩が問う)去秋に貴国人が単子(上疏文)を呈じたが、これは朝廷の命令であるか?
  至於漂風愚民, 設有所作爲, 亦非朝家所知,
  (大臣が答える)漂風愚民がしたことであり、朝廷の知るところではない。

  粛宗実録で認められる史実は、
  ①安龍福は、鬱陵島・于山島が朝鮮領であると主張し、上疏文を差し出した。
  ②この事は、対馬藩の知るところとなり、詰問を受けた。
  ③安龍福の事は朝廷とは関係ない。と答えた。


  ところが、「東国文献備考(1770年)」「万機要覧(1808年)」に次のようにかかれるようになります。粛宗実録では安龍福の功を認めていないのに、「皆龍福功也」となってしまったのです。
  倭至今 不復指 鬱陵爲日本地、皆龍福功也。
  日本が今に至るまで、鬱陵島は日本の地だと主張できないのは、すべて安龍福の功績だ。


  そして、戦後の韓国では万機要覧史観が更に歪められ、安龍福は独島を守った英雄になります。
  この論理は、上記の粛宗実録から①の事実をのみ認めこれを前提において、これを補完するものとして②の事実を捉え、③の事実は考慮しないというデタラメなものでした。


  ところで、1696年の春に安龍福が来日します。しかし、竹島渡海禁止の決定は、1696年の正月に為されたものです。安龍福の行動は領土問題とは何の関係もありません。又、安龍福の于山島認識というのは「漂風愚民」の認識であり、かかる人物の認識は領土問題とは何の関係もありません。
  どうして、安龍福が議題にあがるのでしょうか。私には理解できません。



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